縁 起

江戸時代絵図

山号(さんごう):朝倉山(通称:あさくらさん 正式読み:ちょうそうさん)
寺      名 :真禅院(しんぜんいん)
宗      派 :天台宗(てんだいしゅう)
縁起 寺伝によれば

天平11年2月
739年 行基菩薩により創建(約1300年前)
象背山宮処寺
行基菩薩が自ら本尊阿弥陀如来尊像を彫刻し安置
『象背山(ぞうはいさん)宮処寺(ぐうしょじ)』と名付けた
(垂井町史)
天平12年12月2日 740年 聖武天皇が不破頓宮より宮処寺に行幸 続日本紀・日本紀略
延暦12年 793年 南宮神社と宮処寺が両部習合
象背山神宮寺に改める
桓武天皇の勅命により天台宗の開祖比叡山延暦寺最澄(伝教大師)が来山し 南宮神社と宮処寺を両部習合する
自ら薬師如来像を彫刻し、薬師堂を建立現在の南宮神社地に移転し、寺号を「宮処寺」から「神宮寺(じんぐうじ)」と改め天台宗寺院となる
(山号:象背山で同じ)
天慶3年正月24日 940年 朱雀天皇の勅令により平将門調伏祈願
延暦寺僧明達阿闍梨(注)
平将門叛乱の時、朱雀天皇の勅令により平将門調伏祈願のため延暦寺僧明達阿闍梨(明達律師)が助修僧二十人と共に四天王の秘法を修したところ結願の時、平将門首級到着で、その功能を御嘉賞になり法躰殿の勅額と寺社領を下賜された
(扶桑略記・帝王編年紀・元享釈書)
この時、十禅師社を造営し弟子十人を社僧とした(十坊設置)
(垂井町史)
康平2年正月 1059年 御冷泉天皇より安部貞任追討祈願 安部貞任追討祈願の霊験により後に法性大菩薩の勅額と寺社領を賜る
鎌倉時代 北条政子が鉄塔を寄進 源頼朝の菩提を弔うために妻である北条政子が全国の寺社に寄進したものの一つ(垂井町史)
文亀元年4月 1501年 社殿等が火災により消失 (垂井町史)
永正8年 1511年 社殿等再建 守護土岐政房により復興(垂井町史)
慶長5年9月18日
(17日の説あり)
1600年 南宮神社及び神宮寺の諸堂社は関ヶ原合戦後、安国寺恵瓊の残党により火をかけられ烏有に帰す 神宮寺執行利生院永純が東叡山寛永寺住職慈眼大師天海大僧正(家康のブレーン:徳川幕府の政務に参与:上野の寛永寺・日光の東照宮建立)および春日局に再建を嘆願(垂井町史)
寛永17年9月19日 1640年 徳川三代将軍家光公より金7,000両を支給され造営の運びとなり起工 戦火より40年後に三代将軍徳川家光公より金7,000両を支給され、岡田将監造営奉行(伊勢神宮・多賀大社の造営奉行:美濃代官 幕府勘定奉行)のもとようやく造営・起工となる(垂井町史)
造営は、幕府大工頭木原杢助が各種殿堂の仕様書・木割帳・絵図面等を作り、京都・江戸・名古屋等より寺社建築に経験ある者を集め、幕府工事の一環として行われた(南宮神社造営文書)
寛永19年9月11日 1642年 2ヶ年を要し再建 現社殿及び本地堂・鐘楼等落成(垂井町史)
寛永19年9月12日 1642年 遷宮式執行 (垂井町史)
寛永20年7月 1643年 三重塔落成
日本初の請負工事
三重塔のみは京都の石材商 久保権兵衛の一括請負
(南宮神社造営文書)(垂井町史)
慶応4年 1868年 新政府により慶應4年3月
神仏分離令(神仏判然の令)がだされ
神社と寺院を分離
南宮神社境内にある神宮寺堂塔撤去し移転
当寺院の様な、円満な神仏分離事例は全国でも稀な出来事であった!
日本国中に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、当時神宮寺の執行であった真禅院の秀覚が上京し移転を嘆願
二十二堂塔坊舎を統廃合し信仰篤い宮代村の方々の奉仕作業と南宮神社神職の方々の紳士的対応と協力により現在の地「朝倉」(神宮寺朱印地)に移転
(垂井町史)
神宮寺移転にともなう、宮代村の方々の奉仕作業は、神宮寺朱印地の朝倉の山の切り開き整地作業から始まり、南宮山全体の二十二堂坊舎の解体作業(山上にも堂有)、解体した資材の搬送、建立作業等が同時に行われ、幼子までが瓦一枚を背負い南宮神社から一キロメートル離れた現在の地まで何往復もして運ばれ、村人総出で行われた
宮代村の方々の絶大なる奉仕作業により、わずか三年間という短い期間で円満移転完成することが出来ました(当時の宮代村は400軒弱)
日本国中に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、当寺院の様な、円満な神仏分離事例は全国でも稀な出来事であった!

これは南宮神社神職の方々の紳士的対応と協力および信仰篤い宮代村の方々のおかげです 感謝合掌
明治4年3月 1871年 現在の朝倉の地へ移転完了
寺院名を「朝倉山真禅院」に改める
寺号「神宮寺」を「真禅院」へ
「神宮寺」の寺名を引き続き名のることができず、移転当時に執行であった秀覚の自坊名「真禅院」へと改め現在に至る
山号は「象背山」から移転先の地名により「朝倉山」へ
(垂井町史)
注:
明達阿闍梨
(みょうたつあじゃり)
明達律師
(みょうたつりっし)
貞観(じょうがん)19年/元慶(がんぎょう)元年(877年)-天暦(てんりゃく)9年(955年)
天台宗の僧 字は直仁 蓮華院と號す 摂津住吉の人。
比叡山尊意に師事、朝廷の勅により承平(じょうへい)7年(937年)住吉神宮寺で藤原純友の調伏を、
天慶(てんぎょう)3年(940年)1月24日には勅により美濃神宮寺にて四天王法を修して平将門を降し、
内供奉十禅師となり、天暦(てんりゃく)9年(955年)9月22日寂す。79歳
(続日本紀・帝王編年紀・元享釈書)(佛教辞典 平楽寺書店)